琉球王国時代の貴重な遺産の一つであり、グスクの中でもっとも遺構が残っていることで知られています。美しい曲線を描く城壁や、当時の巧みな石積技術を見ることができます。
中城村の北西から南側に伸びる丘陵の東側の縁を天然の要害として利用しており、貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上に位置していました。
城壁の上からは、西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、そして洋上の島々まで一望できます。
この城は、14世紀後半には、先中城の按司(琉球王国時代の地方や村落を統治する長のこと)が城の南側、西側、一の郭、二の郭などの主要部分を築き上げました。
その後、1440年には座喜味城の按司である護佐丸盛春が移ってきて、三の郭や北の郭を増築し、現在の形が完成したとされています。
増築された城壁は、「相方積み」と呼ばれる高度な技法で積み上げられています。また、一の郭には、アーチ式門が2つあり、当時の殿舎のある城門も同時期に改築されたと考えられています。
しかし、1458年には、王府軍としてやって来た阿麻和利の策略によって、護佐丸は自害して滅びました。
その後、この城は「中城王子の居城」として使われ、琉球侵攻後には「番所」、そして廃藩置県後は「中城村役場」として使用されました。
この城で14世紀後半から15世紀前半にかけて、中国製青磁器が発見されています。また、中国明代に開発された銃器の弾丸と思われる金属弾や石弾も発見されています。
## 中城城
### 概要
中城城は琉球王国時代の貴重な遺産の一つであり、グスクの中でも最も遺構が残っていることで知られています。美しい曲線を描く城壁や、当時の巧みな石積技術を見ることができます。
### 立地
中城村の北西から南側に伸びる丘陵の東側の縁を天然の要害として利用し、貿易港であった屋宜港から約2キロメートル離れた標高約160メートルの丘陵上に位置していました。城壁の上からは、西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、そして洋上の島々まで一望できます。
### 歴史
14世紀後半には、先中城の按司(琉球王国時代の地方や村落を統治する長)が城の南側、西側、一の郭、二の郭などの主要部分を築きました。その後、1440年には座喜味城の按司である護佐丸盛春が移ってきて、三の郭や北の郭を増築し、現在の形が完成したとされています。
増築された城壁は、「相方積み」と呼ばれる高度な技法で積み上げられています。一の郭にはアーチ式門が2つあり、当時の殿舎のある城門も同時期に改築されたと考えられています。
### 事件とその後
しかし、1458年には、王府軍としてやって来た阿麻和利の策略によって、護佐丸は自害して滅びました。その後、この城は「中城王子の居城」として使われ、琉球侵攻後には「番所」、そして廃藩置県後は「中城村役場」として使用されました。
### 発見された遺物
この城で14世紀後半から15世紀前半にかけて、中国製青磁器が発見されています。また、中国明代に開発された銃器の弾丸と思われる金属弾や石弾も発見されています。
## 中城城
### 概要
中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡北中城村・中城村に存在した日本の城で、15世紀の琉球王国・尚泰久王代に護佐丸のグスク(城)として知られています。築城された時期は不明ですが、ユネスコ世界遺産に登録されています。
### 立地
中城城は当時の貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上にあります。中城村の北西から南側に伸びる丘陵の東崖縁を天然の要害として利用し、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られています。石垣の上に立つと、西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せます。
### 歴史・沿革
14世紀後半頃、先中城按司(さちなかぐすくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築きました。1440年には読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春が三の郭や北の郭を増築し、現在の形が完成しました。増築された部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられています。また、裏門以外に一の郭の2つの城門がアーチ式門となっています。
1458年、護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利の策略(首里王府の策略という見方もある)に攻められ自害しました。その後、「中城王子の居城」として使用され、琉球侵攻(1609年)後は「番所」、廃藩置県(1879年)後は「中城村役場」として戦前まで利用されてきました。
薩摩藩支配時代(1609年以降)には、中国からの冊封使節団が来琉した際、薩摩の役人が自らの存在を中国に知られないためにここに隠れていたという伝承もあります。
アメリカのマシュー・ペリー提督が1853年5月に沖縄本島を訪れ、この城を訪ねた際、城壁やアーチの門の建築技術に驚嘆し、詳細な報告文を残しています。
1945年(昭和20年)の沖縄戦で多くの文化財が消滅しましたが、中城城は戦争の被害が少なく、石積みが良好に残っています(戦後に補修が行われました)。
1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝に指定されました。その後、本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となりました(中城高原ホテルを参照)。
1972年(昭和47年)5月15日、沖縄県の日本復帰の日に国の史跡に指定されました。指定面積は110,473平方メートルで、そのうち14,473平方メートルが城郭の面積です。現在、補修・復元工事が進められています。
2000年(平成12年)11月、首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました(登録名称は中城城跡)。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(99番)に選定されました。
2013年(平成24年)、「美ら島おきなわ・花と緑の名所100選」(沖縄県)にツワブキの名所として選ばれました。
### 構造
中城城は連郭式の山城で、六つの郭で構成されています。城壁は主に琉球石灰岩の切石で積まれており、石垣には野面積み(南の郭)、布積み(豆腐積み、一の郭、二の郭)、あいかた積み(亀甲乱れ積み、北の郭、三の郭、物見台)が見られます。1853年に来島したペリー提督は、『日本遠征記』において石造建築の技術水準の高さを讃えています。
#### 一の郭
城内で最も広い郭で、正殿や護佐丸が宴を催した観月台があります。後に間切番所が置かれ、廃藩置県後は中城村役場に使用されましたが、沖縄戦で消失しました。
#### 西の郭
兵馬の訓練が行われた場所で、東西に120メートルの長さがあります。
#### 南の郭
複数の拝所が集中する古い城郭の一つです。
#### 二の郭
布積みの城壁があります。
#### 三の郭
新城(みーぐすく)とも呼ばれ、あいかた積みという高度な技法で積まれています。
#### 北の郭
護佐丸が井戸を取り込み増築したと見られます。
#### カンジャーガマ
鍛冶屋跡で、城のためか集落のためかは不明です。
#### 井戸
城郭内に水を確保しているのが特徴です。
#### 護佐丸の墓
城郭の200メートルほど東に護佐丸の墓があります。
### 遺物
14世紀後半から15世紀前半にかけての中国製青磁器や、中国明代に開発された銃器の弾丸と推測される金属弾や石弾が発見されています。
8:30 ~ 17:00
5月~9月 8:30~18:00
年中無休
大人 400円
中/高校生 300円
小学生 200円
普天間 中城公園線 15分