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瀬底島

(せそこじま)

文化・歴史を色濃く残す、天然ビーチが美しい小さな島

本部町は、美ら海水族館などで知られています。その近くに浮かぶ「瀬底島」は、周囲が7キロメートルの小さな島です。

全長が762メートルの「瀬底大橋」を渡れば、島への行き来が可能で、1時間ほどのドライブで一周できるため、のんびりとした離島の雰囲気を手軽に楽しめます。

瀬底という名前には、「遠くから神がやってきた聖なる地」という意味があり、島には「瀬底土帝君」といった文化的・歴史的な遺跡や施設が多数残っています。島では、盛り上がるイベントや祭も開催されます。

瀬底島にはいくつかのビーチがありますが、特に白い砂とコバルトブルーの海が美しい「瀬底ビーチ」は、海の向こうに水納島や伊江島が望め、美しい夕陽を見ることができるスポットとしても有名です。

沖縄の離島で自然と文化を満喫

### 瀬底島

#### 概要
本部町は、美ら海水族館などで知られています。その近くに浮かぶ瀬底島は、周囲7キロメートルの小さな島です。全長762メートルの瀬底大橋を渡れば、島への行き来が可能で、1時間ほどのドライブで一周できるため、のんびりとした離島の雰囲気を手軽に楽しめます。

#### 歴史と文化
瀬底という名前には、「遠くから神がやってきた聖なる地」という意味があります。島には「瀬底土帝君」といった文化的・歴史的な遺跡や施設が多数残っており、盛り上がるイベントや祭りも開催されます。

#### 自然
瀬底島にはいくつかのビーチがありますが、特に白い砂とコバルトブルーの海が美しい瀬底ビーチは、海の向こうに水納島や伊江島が望め、美しい夕陽を見ることができるスポットとしても有名です。

### 地理
瀬底島は、沖縄県国頭郡本部町に属し、本部半島の西方沖約600メートルの東シナ海に位置します。セイヨウナシの形をした台地状の低平な島で、面積は2.99平方キロメートル、周囲は7.3平方キロメートル、標高は76.0メートルです。2012年4月時点の人口は817人です。

島は隆起サンゴ礁で、主に琉球石灰岩で構成されています。島中央部は三畳紀の基盤岩類からなる今帰仁帯と呼ばれ、2段または3段の海岸段丘が見られます。島北部にはカルスト地形の一つであるドリーネやカレンフェルトも発達しています。北方からの強風に晒されるため、防風林が設置されている箇所もあります。島の周囲に砂浜が点在し、内陸部は平坦で河川は存在しません。集落は島の中央部にあり、その外周を農地が囲んでいます。島南岸には琉球大学熱帯生物圏研究センターの研究施設があります。

島内にはリュウキュウマツ、フクギ、ガジュマル、アコウなどの植物が生育し、島北部にはアダンやソテツの群落が分布しています。また、ハブも多く生息しています。

### 歴史

#### 方言と名称
瀬底は方言で「シーク」または「シスク」といい、島民からは「シマー(島)」と呼ばれます。『海東諸国紀』には「師子島」とあり、沖縄本島間の海域は「世々九浦」と記載されています。『ペリー提督沖縄訪問記』と『ペリー艦隊日本遠征記』には「スコ島 (Suco Island)」と記され、瀬底島内の集落名は「シスコ (Sisuco)」とあります。瀬底島は『琉球国高究帳』に記載されて以降、この地名が一般に広まったとされます。

#### 先史から琉球王朝まで
先史時代の貝塚やグスク時代の遺構が発見され、瀬底グスク(ウチグスク)では青磁や染付けされた陶磁器が出土しています。伝承によると、ウチグスク周辺に生活していた7世帯が瀬底島を開闢したとされます。1469年に第一尚氏王統最後の尚徳王が死去すると、同系の今帰仁按司の一人の子供がウチグスクに住み渡り、瀬底島に村落を形成したといわれています。また、沖縄本島中部の具志川や石川(うるま市の一地域)からの移住者が、集落を築いたとも伝えられています。

『球陽』(1394年条)には、瀬底島の島民によって放たれた家畜が農作物を食い荒らしたと、沖縄本島の健堅村の住民が非難しましたが、島民はこの苦情を聞き入れませんでした。『球陽』(1736年条)には、本部間切の村々の農地が狭く、木を焼き払って田畑を開墾したと記されています。そこで、土地に余裕のある瀬底島に、本島から海を渡って石嘉波村が移転しました。その際、村人によって石嘉波神社が作られました。

島内には水田はなく、麻疹や天然痘などの疫病が度々発生しました。1826年には飢饉による困窮のため、瀬底村は金銭を借り入れました。島中央部に位置する土帝君の祠は瀬底の親雲上である上間家の一人が1712年に清へ渡航した際、持ち帰った木像を祀ったのが始まりとされます。代々上間家は本部間切の地頭代を務め、1772年に沖縄本島全域に疫病が流行した際、間切全土の復興支援を行いました。特に5代目は貧民救援に尽力した功績が認められ、1831年に王府から掛軸と上布を与えられました。

#### 明治以降
1890年に島内に「瀬底簡易小学校」が設立され、その後本部尋常小学校の分校となりました。1893年に「瀬底尋常小学校」として分離されました。1900年には後の大正天皇の成婚記念として、校舎を背景に生徒と職員を撮影した写真が献上されました。1909年には青年の社会教育を進める「瀬底夜学会」が結成され、「毛遊び」を取り締まるべく、瀬底小学校の職員らが指導にあたり、島内の風俗改良に努めました。1921年に高等科の新設に伴い、「瀬底尋常高等小学校」に改称され、高等科のある沖縄本島へ渡らずに通学できるようになりました。

1944年10月10日の十・十空襲では、瀬底島と沖縄本島の崎本部との海域に停泊していた潜水母艦「迅鯨」が、アメリカ軍の攻撃により沈没しました。この空襲による島内の被害として、民家と学校が焼失し、島民1名が死亡しました。翌年の1945年4月22日、アメリカ軍は瀬底島に上陸し、沖縄戦における島内出身の軍人・軍属72名と一般住民102名が犠牲となりました。

戦時中、本部町民は久志、辺野古の収容所へ移動させられ、当地で終戦を迎えましたが、瀬底の住民は収容されませんでした。これは島の主要な人物が、学校再開を条件にアメリカ軍と交渉し、島民は移動を免れたとされています。1953年、島内に製糖工場が建設されましたが、1960年に大型の工場が今帰仁村に設立され、島内の工場は買収され、サトウキビの生産のみとなりました。

瀬底島には井戸が存在せず、昔から天水に依存しており、雨水を蓄える貯水池が御嶽に残存しています。旱魃で水不足に陥ると、沖縄本島から生活用水を輸送していましたが、1964年にボーリング機材を用いて地下水を汲み上げ、幾分水不足が解消されました。そして1982年に沖縄本島から海底送水が実施されました。1973年に電話回線が開設され、電力も対岸の本部半島から海底ケーブルで送電されています。1985年、瀬底島と本島間を結ぶ瀬底大橋が完成

### 産業

瀬底島の主な産業は農業です。サトウキビ、スイカ、菊が主要な産物であり、花卉類は通常の出荷時期を変えて生産されています。過去にはサツマイモや麦、豆類が栽培され、大正時代には鰹節の生産も行われていました。また、昭和初期には石灰質岩石のトラバーチンを産出し、国会議事堂の建材として使用されました。

「ムンジュル笠」と呼ばれる麦わら(方言で「ムンジュル」)を編んで作った菅笠状の日笠は、瀬底島の工芸品として知られています。沖縄本島北部では「シーク笠(瀬底笠)」とも呼ばれ、明治時代から1960年代まで農家の副業として生産されていました。しかし、その後は多種多様な帽子が大量に製造されるようになり、ムンジュル笠の生産はほとんど途絶え、2020年時点では生産者は1人のみとなっています。

### 観光

島西部の海岸には全長約800メートルの「瀬底ビーチ(クンリ浜)」があります。また、瀬底大橋の橋詰付近には「アンチ浜」と呼ばれる砂浜が広がっています。瀬底ビーチの隣接地では、「都市デザインシステム」(現:UDS)が約360室の高級リゾートホテルとして開発を進めましたが、2008年の金融危機により民事再生法を申請し、倒産してしまいました。施設は6割完成時点で建設が中止され、その後放置されていました。

2015年12月に森トラストが土地を取得し、2018年より再開発が行われました。2020年7月1日に「ヒルトン沖縄瀬底リゾート」が開業し、2021年には132室の会員制タイムシェアリゾート「ヒルトン・グランド・バケーションズ」も開業しました。

### 文化

瀬底島中央部には、古来より中国で農業の神様として崇拝された土帝君の祠(瀬底土帝君)があり、毎年旧暦2月2日に豊年祭が行われます。この祠は2000年に国の重要文化財に指定されました。戦時中に土帝君像は焼失しましたが、戦後に新たに作られました。

昭和初期まで氏神に奉げる村踊りと綱引きは毎年交互に行われていましたが、1935年からは4年ごとに1回交互に開催されるようになりました。村踊りは旧暦8月中旬の4日間、綱引きは11日に行われ、帰省者や沖縄本島から訪れる観客で賑わいます。

島南部には「参詣毛(サンケーモー)」と呼ばれる小高い丘があり、毎年旧暦5月15日に祖先の故郷を参拝する「グングヮチウマチー(5月祭り)」が行われます。その他にも獅子舞踊りや旧暦7月に伝統芸能「シヌグ」が催されます。シヌグは作物の収穫終了後と次の農作へ移行する間に行われる祭事で、沖縄本島北部や奄美群島の一部でも見られます。毎年5月と11月には、ヤギ同士が闘う「ピージャーオーラサイ」もしくは「ピージャーオーラセー」という伝統行事も行われ、島民らが一体となって島内行事に取り組んでいます。

### 言語

瀬底島で使用される方言は沖縄北部方言に含まれますが、この方言の特徴である有気音と無気音の区別はありません。それ以外の発音は他の琉球方言と比較して際立った特徴は見られず、文法もほぼ変わりません。また、水納島は瀬底島から移住した人々で構成されているため、方言も同一です。

# 交通 瀬底島の沖合は古くから荒れやすく、王朝時代から船舶の転覆・座礁事故が多く発生していました。しかし、瀬底島と本部半島に挟まれた海峡は穏やかで、外航船の避難港として利用されていました。この海域は『球陽』には「瀬底二仲」、明治時代の水路誌には「瀬底港」と記されています。1911年にアメリカの軍艦アルバニー号が来航し、1944年の十・十空襲では、停泊していた潜水母艦「迅鯨」などが攻撃を受けました。 沖縄本島と瀬底島が橋で結ばれる以前は、渡し船が唯一の交通手段でした。1946年から橋が完成するまで、瀬底港と沖縄本島側の浜崎港を1日11便で結ぶ汽船が運航され、島内の学生が沖縄本島の学校へ通学するために利用していました。現在は近くのビーチが観光資源として整備されています。 1972年から7年間、瀬底大橋の建設調査が行われました。1974年には島内の主要道路が沖縄県道172号瀬底健堅線に指定され、1979年に工事が始まりました。1985年2月13日に瀬底大橋が完成し、全長762メートルで当時の沖縄県最長の橋となりました。また、翌月の3月31日に開通を祝して島内に記念碑が建立されました。開通後は、島民の生活道路としてだけでなく、観光資源としても利用されています。 1986年に瀬底大橋の完成後、沖縄バスによるバス路線が導入されました。瀬底大橋を渡り、本部町中心部や名護市と瀬底島を結ぶ路線バスが琉球バス交通と沖縄バスによって運行されています。65番と66番がそれぞれ1本ずつ、76番が瀬底を起終点として2往復運行され、やんばる急行バス四島線がヒルトン沖縄瀬底リゾートを起終点として本部町内、今帰仁村、屋我地島を経由して古宇利島へ3往復運行されています。 #### 当地を舞台にした作品 - 『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980年) - 『風音』(2004年) - 『子宮の記憶 ここにあなたがいる』(2007年) - 『クソ野郎と美しき世界』(2018年) - 『えびすじゃっぷ SCOLER JAPAN』(2020年)

Information

名称
瀬底島
(せそこじま)
リンク
公式サイト
住所
沖縄県国頭郡本部町瀬底
アクセス

那覇空港から車で
1.高速利用時:那覇IC→許田IC→国道58号線経由で約1時間35分
2.一般道のみ:国道58号線→国道449号線を利用して約2時間10分
3.最寄の許田ICから国道58号線を利用して約35分

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